「幸・不幸」で考える
先日、寮のテレビを点けると、NHKのEテレで「ウワサの保護者会」という番組が放送されていました。
その回のテーマは「性のはなし、してますか?〜中高生編〜」でした。
将来親になったときに備える気持ちと、ゲスな興味が半々、いや4:6、正直2:8で番組を見てたんですよ。
その中で、教師として20年以上性教育してきた村瀬幸浩さんの言葉にハッとしました。
村瀬さんは、息子を持つ父親たちとの意見交換の中で、「高校生が性交することを「善・悪」で考えがちだが、「幸・不幸」で考えるのはどうか」と仰りました。
それを聞いて、これは性教育以外にも当てはまる考え方だな、と思いました。
「善・悪」で考えがちなところを、「幸・不幸」で考える。
ここには、生きやすくなるヒントがあるんじゃないでしょうか。
「善・悪」というのは社会的な規範で、しばしば二元論に陥ります。「正しい・間違っている」(こちらはより二元論的な響きがある)にも拡張できる場合が多いでしょう。
対して「幸・不幸」というのは個人の基準、というよりも「感覚」のほうが近いと思います。
今、この「感覚」を抑えつけすぎなのかもしれない。自分の「感覚」も他人の「感覚」も。
そもそも、「善である」「正しくある」ことって、自分や周りの人が「幸せである」ための手段の一つにすぎないんじゃないか。
飛躍しますが、社会が個人の集合であるならば、個人の「幸・不幸」の集合が「善・悪」を作るはずで、「善・悪」は「社会」自体が幸せになるための装置ではないと思います。というか「社会」自体が幸せになるってどういうことでしょう?「社会」は概念で、存在するのは個々人だけであるにもかかわらず。
でも、無意識に「社会」に肩入れしすぎる人もいて、その多くは「善・悪」「正しい・間違っている」で物事を語ります。というよりも、「善・悪」「正しい・間違っている」で物事を語っているうちに、「社会」が自分と同化するのかもしれません。
社会と同化した意見に私は賛成できません。それは私を幸せにしないと、私は思うからです。
私は「社会」の中にいるけれど、「社会」と自己の同化を拒否したいです。
できれば、「正しさ」を押し付けあうよりも、個々人の「幸・不幸」を持ち寄りたいです。
eastern youthの吉野さんが、去年のライジングサンロックフェスティバルで言っていました。
「ロックで一つになるんじゃねえ。ロックで一人一人に戻るんだ」
メチャクチャnoteの人みたいなことを書いてしまいました。支離滅裂やし。チンポ!